日本一新運動」の原点―50、51
◎「日本一新運動」の原点―50日本一新の会・代表 平野 貞夫
平成22年6月の創刊号から始まった「メルマガ・日本一新」
で、私が担当した論説が、本号で50回となった。自称、「アナ
ログ人間日本一」の私を支えて頂いている維持会員の皆さんに、
心から感謝する。
(巨大震災は20世紀文明への警鐘だ!)人類はアダムとイヴが蛇に騙され、リンゴを食ってから欲望が
生まれた。その欲望が排他的競争となり、人類の歴史はその歴史
でもあった。その結果が拝金資本主義の跋扈による我欲の解放で
あり、そして技術の進歩は、コントロールが困難な原子力の活用
を文明の主流に押し上げた。
いにしえの古代、人間は「太陽と月と星」を三位一体として信
仰し、自然の営みに感謝して暮らしていた。「太陽」は繁栄の神
として、「月」は変化の神として、「星」は心の癒しの神として。
ところがいつしか多くの人間は「月」の変化の無情を忘れ、「星」
の人々への平等な優しさを忘れていく。そして「太陽」の繁栄を
信仰の中心とするようになる。人々が繁栄を求めることは大事な
こと。しかしそれを排他的な競争で求めるなら「欲望という名の
電車」に乗り、あてどもない「所有欲求」と、「存在欲求」の旅
となる。それが2000年の人類の旅であり歴史であった。
人類は欲望を達成するため、自然を壊し、人を殺し、戦争を仕
掛け、ひたすら便利さと効率を求め、それが文明であると信ずる
ようになった。20世紀文明、それは人間が2000年かけた欲
望を競争させる時間である。その成果が「原子爆弾」の発明であ
り、それを活用した「原子力」であった。原子力発電によって生
じる「プルトニウム」という悪魔の物質は、自然が創ったもでは
ない。それは人類の欲望が創ったものだ。人類は、自己が創った
物質によって自己が問われることになった。
「東日本大震災」という未曾有の大惨事、地震と津波という自
然の怒りが、日本の中でもっとも自然を尊ぶ人々の多い地域を襲
ったことに、無情を感じるのは私だけではない。衝撃的なのは人
類文明・欲望のシンボルである福島原発が襲われたことである。
それを人類は防ぐことができなかった。否、正確に言えば、これ
は人間が引き起こした「人災」である。「想定外」と政府や東京
電力が叫ぶ思想に、自然の中に生きる人間の宿命を忘れ、自然へ
の冒涜がある。それが人災といえる。
(自然との共生を抜きに人間は生きられない)私の故郷・土佐清水市に、津波の恐ろしさを象徴する口伝が残
されている。旧三崎村を流れる三崎川川口から約3キロ上流で海
抜70メートルぐらいのところに、「あかぼう・とどろ」という
所がある。「あかぼう」とは赤い色の深海魚のことで、「とどろ」
とは「轟」のことであり淵(ふち)などが合流して音を立てて流
れている場所のことだ。この地名の謂われは「海抜70メートル、
川口から3キロぐらいの溝に深海魚が泳いでいた」ということだ。
口伝によれば、白鳳の大地震(685年)で大津波が起こった
ことで、いかに自然の猛威が厳しいものであったかわかろう。
ちなみに、この南海地方を襲った大地震では、土佐湾の海側に
あった黒田郡全体が陥没したといわれている。村人たちはこの自
然の猛威を教訓として、自然と共生してきた。農家は台地に家を
建て、漁民は浜辺でも津波を避けられる地形を選んで暮らしてい
た。
この自然との共生は戦後も昭和30年頃まで続いていた。高度
経済成長時代に入り、この地方の人々の暮らし方も変化し、目先
の利害と効率性に影響されるようになった。それでも四国88ヶ
所の霊場の地だけあって、祖先から続く自然への崇拝の精神は残
っている。
「共生」(ぐしょう)ということばの語源は、仏教の『総願偈』
(そうがんげ)というお経の「共生極楽成仏道」からである。こ
の話を小沢一郎さんにしたところ、「共生に生きる社会が極楽か。
共生は利他の精神がなければ成り立たない」と語っていた。そう
いえば、小沢さんが平成18年9月、民主党代表選挙の出馬にあ
たっての「私の政見」で、「人間と人間、国家と国家、人間と自
然との『共生』を国是とする」と宣言し、これを民主党の基本理
念にしようとした。
しかし、政権交代を成功させた民主党は、菅政権になって「共
生の理念」を放棄し、「競争の原理」という小泉政策に戻っただ
けではなく、ウラニウム原発をわが国の恒久エネルギー手段と位
置づけたのである。さらにそれを発展途上国に多数売り込むこと
によって、わが国の経済成長の基軸とする政策を強行するに至っ
た。
東日本大震災は、「共生」を新しい国づくりにするために政権
交代した民主党が、それを裏切ったことに対する神の警鐘と私は
理解している。「自然との共生」を抜きに人間は生きていけない
真理を知るべきである。
(原子力との共生は可能か?)昭和56年(1981)秋、衆議院事務局で科学技術委員会の
担当課長の職にあった私は、四国で初めて建設された愛媛県伊方
原発を視察した。応対してくれた所長に、「原発で事故が起きる
場合、どの部分がどういう理由で発生するのですか。それを防ぐ
ために、どういう方策をとっていますか」と質問した。
所長の答えは「絶対とは言いませんが、技術面では100パー
セント近く事故を起こさない自信を持っています。もし事故が発
生するなら、人間の傲慢さや過信から生じる事故です。そのため
徹底的に人間教育をやっています」ということであった。この所
長がいる限り伊方原発からは事故は起こらないと、私は感じたも
のである。
30年ぐらい前までは、こういう技術者が日本にはいた。日本
の技術はこういう精神で秀でた成果を出していたのだ。この30
年間で日本人の精神がすっかり変わった。福島原発災害に対応す
る東京電力関係者だけでなく、政府の原子力関係者、著名な原子
力学者たち、そして政治家たちのコメントを聞くにつけ、原子力
技術に対する傲慢さと過信で腐りきった人間を、テレビで見せつ
けられる毎日である。
「想定外の災害に対応できる設計でなかった」との主張に万歩
ゆずって認めるとしても、災害発生後の対応について指導的立場
の人たちの傲慢さと過信が被害を拡大したことは間違いない。
その結果が世界最大の原発事故といわれるチェルノブイリ原発
並の「レベル7」という、深刻な状況となったことを、政府は一
ヶ月も遅れて発表せざるを得なかったのである。
菅内閣の原発対策関係者の中には、「3月15日には『レベル
7』の認識であった」と、私の知っている記者に説明しているか
ら、いずれ報道されると思う。要するに菅内閣は福島原発災害に
ついて、国民と国際社会を騙していたのである。正確で誠実な情
報を開示しなかった責任は重大である。初動対応を誤り、被災者
をはじめとして、国民の混迷はもとより、国際社会の菅内閣への
不信感は「核臨界」寸前である。原発問題での菅首相の対応は、
国際社会を冒涜することに通じ、日本の国益を著しく損失させて
いる。
菅内閣と政府の原子力関係機関、そして東京電力の傲慢や過信
で惨状を拡大した原発、すなはち原子力問題をいかに考えるべき
であろうか。
人類は原子力と共生できるか、という問題がある。私の結論は
「現在、電力全体の約40パーセントを依存している原発を直ち
にゼロにすることは難しい。いまの軽水炉の安全性を確保し、耐
久年収に応じて順次廃炉にして、原発依存から脱していくべきだ」
というものだ。
代替案として、平成19年7月の参議院選挙のマニフェストに、
中長期エネルギー対策構想を入れるよう当時の小沢民主党代表に
進言したことがある。「プルトニウムという核兵器になり、悪魔
の物質を発生させるウラニウム原発政策を見直すべきだ。プルト
ニウムを焼却できて、安全性が高いトリウム溶融塩原子炉の研究
開発を復活すべきである」というものだった。
小沢代表は賛同してくれ「菅代表代行と鳩山幹事長に説明する
ように」指示された。菅代表代行に説明すると「あなたから原子
力の話を聞いても仕方がない」という態度で、驚いたのは「トリ
ウム溶融塩炉なんて知らない」という言葉であった。ウラニウム
原発の危険性について政治家としての感性がないと私は思い、鳩
山幹事長への説明もやめた。
民主党では原子力の安全性や、原発政策見直しを論じても仕方
がないと諦め、以後この運動を東京電力の豊田元副社長や、朝日
新聞の科学部元記者の飯沼氏らと、細々、知人の国会議員に啓蒙
活動をやってきた。
原発は、ウラニウムでもプルトニウムでも、安全性が高くて核
兵器に使えず安い経費で済む「トリウム」であっても、できれば
活用しない方が良いに決まっている。しかし、現在の文明社会を
すべて否定できない以上、安全で環境にやさしいソフトエネルギ
ーですべての電力が賄える時代が来るまでの期間、原子力と共生
しなければならない。そのためには、技術の安全研究・開発もさ
ることながら、この項のはじめに書いた、伊方原発所長のことば
を忘れてはならないと思う。
「もし事故が発生するなら、人間の傲慢さや過信から生じる事故
です。そのため徹底的に人間教育をやっています」
東日本大震災の翌日、菅首相は親しい友人に「これで2年間政
権を続けることができる」と語ったという情報が流れている。真
偽の程は不明だが、次々と内容が伴わないパフォーマンスを見る
につけ、彼の深層心理は情報の通りとするのが常道だろう。その
他にも、思いつき・手続無視の問題発言が続出し、政権内の混迷
となり、菅首相の「傲慢と過信」が、第2次、第3次災害を引き
起こしている。
4月13日(水)、小沢一郎元民主党代表は、直系の衆議院議
員でつくる「北辰会」の会合に出て「小沢氏の見解」を示した。
そこには菅政権に対して被災者が強い不安を抱いていること、原
発事故の初動対応の遅れをはじめ、菅首相の無責任さが更なる災
禍を招きかねないと指摘し、何のための政権交代だったか、先の
統一地方選の大敗は菅政権への国民からの警告だとの見解を提示
した。小沢氏の見解が民主党内でどれほどの理解を得るのか、野
党に、その真意をくみ取る感性があるかどうかは読めない。私は、
人間・小沢一郎が「身命を捨てて」世界と日本人に、その覚悟を
示したものと思う。
私には、小沢氏が北辰会でこれを提示したことに特別の思いが
ある。
「北辰」は「宇宙を司る不動の北極星と北斗七星」のこと。古
代から民衆を護る神といわれている。私の手元に「我れ北辰菩薩、
名付けて妙見と曰う」で始まる『妙見菩薩陀羅尼経』がある。そ
こに重大な文言を見つけたので、ここに紹介しておく。
「若し諸々の人王、正法を以て臣下を任用せず、心に慚愧(ざん
き)なく、暴虐濁乱(ぼうぎゃくじょくらん)を恣(ほしいまま)
にして、諸々の群臣・百姓を酷虐(こくぎゃく)すれば、我れ能
く之を退け、賢能(けんのう)を徴召(ちょうしょう)して其の
王位に代わらしめん」
◎「日本一新運動」の原点―51日本一新の会・代表 平野 貞夫
(被災した東北の人々の心情)
今回の東日本大震災で、未曽有の被災を受けた東北の人々の様
子が、テレビなどで報道されている。それに対して多くの人たち
から「被災したはずなのに東北の人々は決して不平をいわない。
小さな善意にも心底から感謝する。その純な気持ちが直に伝わっ
てくる。素晴らしい」と、感想をもらすのを聞く。確かにその一
面もあるかも知れないが、果たして東北の人々の心情をそのレベ
ルだけで考えてもよいものだろうか。
このことで、京都造形美術大学教授で磐座(いわくら)学会会
長の、渡辺豊和氏が重要な発言をしている。渡辺氏は私の尊敬す
る友人で、世界的に知られている建築家だ。縄文文化の研究者と
しても有名である。阪神淡路大震災の際、神戸の復興を「曼荼羅
都市」とし、鎭魂の心をもって都市再建すべしとの設計案を出し
た人である。私も国土庁(当時)に要請したが、残念なことに実
現しなかった。
東北は秋田県の出身で、岩手県との境で生まれている。先祖は
岩手県の被災地で、親族の多くが被災している。その渡辺氏が、
「磐座学会会報」(21号)の巻頭で次のように述べている。
テレビで放映される被害者たちの談話などを聞いていると、気
候風土の厳しさがあのような気持ちを育むのかも知れないが、と
して、東北の人々は「自身の身体で自己表現しようとする内に秘
めた激しい欲求に起因している」と。そして、「東北の人々は現
代の機械尊重の文明を信じていない。東北出身の私にはそのこと
がよくわかる。ところが皮肉なことに今度の震災でもっとも難儀
な問題は原発なのだ」とし、テレビで放映される被災者たちのほ
とんどは、農業や漁業従事者であり、この農業や漁業は直接身体
を使う仕事だから、彼らは身体で自己表現しているのだと、渡辺
氏は論じている。さらに、「高度科学技術文明が限界にきている
のは誰の目にも明らかだし、このまま進展したら間違いなく人類
は滅亡する」と結論づけている。(東日本被災地の復興の思想は何か!)
大震災の数日後、達増岩手県知事から電話があり「岩手県の被
災地復興イメージづくりに、渡辺豊和さんの協力を得たい」と言
うことであった。達増知事は今回の大震災の本質を理解し、復興
の思想を「高度科学技術文明の限界と人間の復活」にと、懸命で
あった。この発想が復旧復興の原点でなければならない。そのた
めに渡辺氏の話を紹介したわけだ。
大震災から一ヶ月が過ぎて、それぞれの立場の人物が復興につ
いて、いろいろ発言しているが、被災者の心情や被災地の歴史的
文化を無視したものが多い。
代表的なものをいくつか挙げてみよう。まず、菅首相が陸前高田市などを視察した際、復興は「山を削
って高台に住宅を建てることにし、エコタウンをつくる」と語っ
たことだ。海辺の山々を削れば何が起こるか。環境破壊どころか
災害の原因となる。災害は地震や津波だけではない。何がエコか、
不見識も甚だしい。
次の暴論は、復興構想会議の議長となった五十旗頭真氏の発言
で「災害のガレキを一個所に集め、希望の丘公園をつくればよい」
というものだ。この程度の発想しかできない人物が大学教授で、
しかも、国防の根幹ともいうべき防衛大学校長というから、日本
という社会は余程人材がいないようだ。この欠陥人間を、復興構
想会議の議長に座らせる菅首相の頭の中はどんな構造をしている
のか、問うまでもなかろう。
もうひとつだけ紹介しておく。とうの昔に過去の人物になった
と思っていた竹中平蔵氏だ。東北被災地の復興に「TPP対応型
の強い農業」などをつくるビジョンを明確にしろとの主張だ。被
災地を高度経済成長策によって復興させようということだ。これ
だと高度科学技術文明のシンボルである、競争的資本主義を東北
で実現しようという主張である。私は、被災地の歴史と文化がそ
れを許すことはないと断言する。
大震災の復旧と復興の基本思想は、被災者の「幸福」を回復・
確定することを通じて、被災地を再び災害のない安心して生活が
できる場所にすることである。従って災害の真っ最中に「山を削
ってエコタウンをつくる」とは、被災地の事情も知らず、彼が得
意とする「その場の思いつき」でしかなく、内閣総理大臣が発言
することでは断じてない。
東日本大震災の復旧・復興には、高度科学技術文明の限界と反
省を基本思想としなければならない。そして近代科学技術の長所
を活用して、「人間と人間の共生」、「人間と自然の共生」を実
現する新しい国づくりを、根本発想とすべきではなかろうか。こ
れであれば、東北という、一地方の問題ではなく、いつ起きるか
も知れない東海、東南海、南海地震などに対する備えにつながる
のではないか。(復旧・復興財源をめぐる国家観の対立)
4月19日(火)の読売新聞(東京14版朝刊)は、一面トッ
プに『消費税3%上げ検討』復興財源 政府、3年限定 201
2年度にも、という見出しで特ダネ記事を出した。ごく一部のマ
スコミを除き、多くのメディアは消費税増税を主張する菅政権の
情報操作の手助けを、かねてからやっていることは誰でも知って
いることだ。
菅政権内部では、被害総額を約25兆円と見立て、消費税率3
%の引き上げで約7・5兆円を確保し、3年間の復旧に必要な支
出の大部分を賄うという魂胆である。しかも、それだけではない。
8%となった消費税率を、その後は名目を変更して恒久化しよう
と画策している。
これは大震災を利用して、税と社会保障の一体化という菅政権
の謀略を強行しようとすることに他ならない。世論調査では消費
税率アップに対し、支持率が60~70パーセントあるというが、
これは巨大メディアの情報操作であり、このような不条理を許す
ことはできない。
この謀略の思想は、総被害額をなるべく抑え込み、従来の災害
原型復旧だけとする官僚の発想によるものだ。新しい東日本をつ
くるという考えは微塵もない。福島第一原発災害の国民への被害
に配慮するつもりはまったくないようだ。要するに従来の劣化し
た官僚国家体制を続け、自分たちの既得権益を維持発展させよう
とする考えだ。
この発想に対する政治家たちの反応が鈍いことも問題である。
一部に増税反対の声があるが、財源論に説得性がない。さまざま
な形での国債発行論があるが、政策として集約されていない。大
量の赤字国債の発行が「市場を混乱させる」という岡田民主党幹
事長の主張に、政治家としてまとまった反論ができていない状況
だ。増税論も反対論も、それぞれの政治家自身に、「共生社会」
を理念とする国家観がないからだ。
この「共生」という国家観を前提に、財源をどう賄うか、これ
に智恵を出すべきである。昨年の民主党代表選挙の際、私が提案
したのは「民間の埋蔵金」の活用である。それは金融機関(銀行・
郵便局・保険会社など)の「休眠口座」を、法律によって公的に
活用できるようにして、財源とすることである。「休眠口座」と
は、死亡・行方不明者、相続人がいない人、規制のない時代にネ
コやイヌの名前で口座を作ったものなどのことで、いまは放置さ
れている。
英国では、最近、20年間使用されていない「休眠口座」を法
律で公的に活用しており、大きな成果を上げている。日本では、
この「休眠口座」にどの程度の資金があるか、専門家の推測によ
れば「可能性として50兆円程度」ということだ。現実問題とし
て「30兆円程度」のものは確保できると思う。これは増税とか
国債とかいった厳しい議論のあるものとは違う。金融機関がこれ
まで国民に迷惑を掛けてきたことを思うと、国民的合意は難しい
ことではない。
これ以外に、どの程度の財源が必要となるか、それは復興計画
構想によるが、私の発想だと、直接間接の復興費と、それに伴う
社会や経済の再生も「共生社会」実現のために必要となる。50
兆円、否、場合によっては100兆円という財源を必要とするで
あろう。その財源の確保については、既成の官僚的発想でなく、
場合によっては、子孫への価値を残す建設国債や、英国の「コン
ソル公債のような永久国債発行の措置」などの検討を含め、叡智
を集めるべきだ。
大震災を悪用して火事場泥棒ならぬ津波泥棒の如く、消費税率
アップを恒久化しようとする菅政権は直ちに退陣すべきである。
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