ちょっとだけお役に立ったかな。
今日の午前中は、緑区のある小学校の教育者研修会にお呼ばれして、中途失聴者の立場からお話させていただきました。
予定の30分をオーバーして1時間近くを一人でしゃべっていたような気がします。
私など結構普通に話をしますので、え?これのどこが障碍者なの?と思われてしまうことも多いのですが、実際には自分の発する音声も音としては自分の耳のには届いていない訳で、ではそれを的確にどう現すればいいのか、言葉で伝えられるのかと。
私なんかは音声のない世界が普通なわけで、それを苦痛とか困るとかとりわけ意識しているわけではないので、いざその問題を伝える段になると、どう言葉に置き換えるか難しいところがあります。
自分としては音がない、音声がないのが普通といえば普通だとするしかないわけですが、じゃ、日常生活で、仕事で困らないのかといえば、実は大いに困っているのだけれど、どちらにしろ聞こえないのだから仕方が無いと無気力になってしまう自分がいますね。
それじゃいけないのだけど。
そんな中でおこがましくも学校の先生方にコミュニケーションと言うか、聴覚障害の事であるとか、学習障害であるとか、盲聾の障碍者の困難さ、友人の義足のライダーの話であるとかをさせて頂いたわけで。
考えて見れば、某小学校でも学級崩壊が起きているとかを、かみさんから聞いていますから、そんなのも広義のコミュニケーションの問題、コミュニケーションの崩壊なんだと思えば、とにかく、自分の状態を表現する手段を持たない、あるいは持てない、音声による情報が入ってこない聴覚障害者だけが問題だというより、もう、子も親も社会もひっくるめてコミュニケーション障害になっちゃっているんだろうな。
そんな中で、何十人もの生徒一人ひとりに全てに、その子に合わせたコミュニケーションを取って欲しいとまで言うのは、酷というものだろうけど、私の話したようなことがちょっとでも先生方のお役に立ってくれるなら嬉しい。
今度の日曜日、久しぶりに砧のアジトに行きます。
誰と言わない、これを読んでいたら、声の一つ聞かせに来て下さい。
おいらは声じゃ聞こえないから、せめて影だけでもいい、手紙の一枚でもいい見せてください。
照る日、曇る日、泣きたい日。
砧じゃ腹の底から笑いたい。
仲間じゃないか、誰もが待ってるよ。
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