乗り越えたらそれで終わりなのかな??
一週間のご無沙汰ですは、もう亡くなられた有名な司会者さんのキャッチフレーズでした。
で、私といえば一週間どころかこのブログのことも忘れていた・・・・・
言い訳といったら何ですが、身辺で本当に悩みを抱えていた。 今も解決したわけじゃないのだけど、こう言う身辺というか身内の問題は、自分自身の問題も含めてとにかく耐える、自分の心の中で耐え切ってしまうというようなところが、私にはあるんで。
でも、こういう心の動きって、多分、多くの人にもあるのだろうと思う。
耐えられる人はなんとか乗り越えちゃうのだろうが、その思いというか内なる不安、葛藤、強迫観念が、今、この文を書いていても思うのだが、人の思考と言うのはそもそも、どこにあるのか?
昔の人は人の心は心臓にあるとか考えていたところもあったようだし、今は脳のどこかというか、脳全体こそが人の思考なんだと思うのだが。
で、思考というもの、これは人それぞれなんだろうが、私で言えばモノを見ていれば目の裏というか見えているものが言葉に置き換わって脳の目の裏の部分なのか、両耳のあたりなのか言葉が反響する、駆け巡る、何だか自分の言葉で頭の中で話しているように感じるわけだ。
時にこの声というか音というのか、そもそも、現実の音声は高音はほとんど聞き取れず、聞こえる周波数や音量であっても、読み取れるとか聞き取れる訳でもないので、通常は外部からの音声は全くない状態で、今の私がある。
この内なる声が途絶えるときは殆ど無い。
高周波というのだろうか、刺すようなキィーーーーーーン!!とした音?のようになって、耳の奥で暴れまわることもあるが、それに対しても、私は誰にも言うわけでもなく、表面的には何事も無く耐え続けている。
多分、この内なる声、内なる思考が、自分の考えや思考であるうちはまだ良いのだろう。
しかしこの内なる声、内なる思考が、脳内に溢れ思考自体を攻撃するようになったらどうなるのだろう。
欝であるとか、強迫観念であるとかは、そんな感じなんじゃないかと思っている。
少なくとも、高度な感音性難聴の私は、外部からの音声からは隔てられているが、少なくともそれによって外部からの音声や何やらと戦わなくても済んでいるようなところがある。
健常者、所謂聞こえる人たちは、そうはいかないということなのだろうか。
人の言葉も、その内容や意味以上に、言葉や音声という刺激自体が取り込まれた時に、その人の内なる声、内なる思考と一体となって、更に脳内を攻撃するのではないだろうか。
なんだか、当初、書こうと思っていた内容と変わってしまった(笑)
技工や歯科の業界について書こうと思ったのに・・・記事変えて続けます。
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